Top  News  Archive  工房  花嫁の装束  作品集  Gallery  取扱い店舗
gyouretsu
大名婚礼行列図(江戸時代末期)

女性の婚礼服飾・風俗史


着物

shiromuku
irouchikake
kurofuri

着物の原点は、やまと文化の始まりにあります。中国との交易の遣唐使は838年最後の派遣で終わりました。以後中国、朝鮮の影響の文化から日本独自の文化の発展と変化します。平安時代の話です。着物の原点とされる小袖は、平安時代の公家の十二単の下着で直接肌にふれる肌着でした。一般女性はこの小袖に裏生地を付け上衣とし、小袖は表着として、重要なものとなりました。生地質、織りにも変化がおこり、麻から絹へ。無地から文様を織り出した物のように高級化していきます。後に、小袖を重ねて着る『重ね小袖』ができ、武家社の上流婦人の着装する小袖の上から、小袖を帯をつけないで打ち掛ける打掛姿となります。平安時代以来権力者のご婦人は、重ねることが権力の象徴と考えたようです。
 さて、花嫁装束には、平安時代以来白が尊ばれ、室町時代には、白の小袖に白幸菱文の打掛の『白無垢』が武家の婚礼作法と定まりました。この様式が今に伝っています。また吉事として、白打掛の裏や、下着を紅色にする場合もあります。
挙式には、白の掛下に白の打掛の白無垢
お色直しには、色の振り袖に色の打掛の色打掛
お色直しが進んで、色の振り袖
最後のお色直しに、黒の振り袖 (黒はこれ以上染めようの無い、染まりきったの意味でしょ。)
これが、婚礼の基本と考えています。現在では、貸衣裳業界の影響で色々あるようです。


    このページのトップへ

かぶり物

wataboushi
tsunokakushi

室町時代の女性の外出時、髪の乱れ防止、埃よけに頭から小袖をかけていました。被衣(かづき、かつぎ)といいます。これが婚礼に使用するかぶり物となりました。婚礼に白かづきが用いられたのは、恥じらいを隠す身だしなみとして使用されました。綿帽子の起源は、諸説あります。江戸時代中期になると、髪の結い上げに油を使用しました。元結(細い丈夫な紙縒り)も開発され、大正、昭和初期まで続く日本髪が発展します。そのため外出時には、埃よけを必要としました。かづきの下に綿帽子(かづきに油の付着よけ)を使用した時期もありました。その後かづきの使用が禁止されたことで、綿帽子に変わりました。現在も、挙式用として白無垢と組み合わせて使用します。綿帽子、角隠しも外出の埃よけが始まりです。綿帽子の縁の垂れているのを引き上げた形とか、姿が揚羽蝶に似ていることから、揚羽帽子、揚帽子とよばれ、女性の外出に用いられました。外出姿は、晴れの時の姿から室内でも用いられるようになりました。呼び名は、江戸、大阪にいろいろあります。 現在も、挙式用として白無垢、黒振袖と組み合わせて使用します。


    このページのトップへ

髪飾り

kougai
irokougai

古代から髪飾りは使用されていました。髪を梳くのが櫛、髪を束ねて固定するものが簪(かんざし)の原型です。また先の尖った細い棒に呪力が宿るとされて髪に一本の細い棒を刺すことにより、悪魔払いができると信じられていました。奈良時代には、唐風になり髪型、髪飾りとも大きく変化します。平安時代から日本独特の文化の発展で髪型も垂髪(今のストレート)に変化した関係、髪飾りは必要無くなりました。江戸時代からの髱、鬢、前髪、髷からなる結髪は複雑で、特に中期に油、元結いが開発されてからは、形は技巧にとんだものとなりました。髷を束ねてるために使用されたものが笄(こうがい)です。花嫁かんざしとしては、べっ甲が使用されましたが高価だったため誰でもが身につけられることはできませんでした。昭和初期に合成樹脂が、べっ甲の替わりに花嫁かんざしの材料として使われるようになりました。昭和40年代半ば頃からお色直し用の衣裳として豪華な色打掛や振袖が主流となるとそれに合わせた華やかな金属笄と呼ばれる花嫁かんざしが作られました。材料に金属を用いることで造形が自由になり、多種多様なデザインのかんざしが作られました。 挙式の白無垢には、べっ甲色や乳白色の樹脂製の笄を、お色直しの色打掛や振袖には、金属笄を付けるのが定着しました。


    このページのトップへ

結髪

katura

日本独自の文化以前は、中国、朝鮮の影響のもと発展しました。結髪も同じです。やまと文化の始まり以来平安時代貴族社会では、うねうねと長く伸びた黒髪が美女の条件とされ、憧れの姿でした。そんなことで、平安時代400年を経て、さらに鎌倉・室町時代までの700年以上女性は髪を結わず、女性の結髪史上、長いブランクの無結髪時代でした。平安時代後期、紙で衿より下の部分で結んでいましたが、桃山から江戸初期には、紙を撚った元結で後頭部をくくり、襟足を見せるようになりました(ポニー・テール)。その毛の先の部分をまとめる、束ねるが、日本髪の始まりです。一まとめから、前髪、鬢(側頭部)、髱(後頭部)、に分かれてまとめる世界的にも類の無い、技術的に高度な日本髪の歴史が始まります。後の江戸時代中期に、元結いが強く細く改善され、櫨(はぜーウルシ科落葉樹)の木の実から、鬢付け油(油の固さにより、髪を張らす、固定する等可能になる。現在のヘアムースの機能をもつ)ができたことによりその形は、前髪、鬢(側頭部)、髱(後頭部)を分ける基本を守りながら様々な形ができあがります。また、武家社会では未婚の女性の髪型は島田髷となりました。結婚後は、丸髷に変わります。明治以降も続き昭和10年代頃もまだ結髪されました。花嫁の結髪は、一般的な現代の婚礼様式の基本は、室町時代からの武家文化の作法を取り入れていますので、結髪は島田で、それも髷の位置が特に高い文金高島田が挙式の髪型です。何百年の歳月をかけ、日本人の繊細な感性で熟成させた日本髪は、永遠のモダン・デザインです。


結婚式の形態

shuugen
祝言「風俗画法・慶事集」より(個人蔵)

古代の日本では、婿取りで,嫁の家で挙式をしたそうです。室町時代以後は武家のしきたりにより嫁取りとして挙式、披露宴は、花婿の家で行われるようになりました。日本人はもともと神様も仏様も各家に手厚く祀られ、家族は神様と仏様に見守られながら感謝の気持ちとともに生活していました。花嫁は、自宅の神様と仏様に結婚の報告とこれまでを感謝して、花婿の家に出かけます。花婿の家でも神様と仏様に報告と感謝して披露宴に移ります。
神前結婚式は、明治33年に宮中内賢所にて執り行われた、後の大正天皇と貞明皇后の婚儀に倣い大正時代に一般大衆に広がりました。 その後、専門結婚式場、ホテル、レストラン、ゲストハウスと挙式、披露宴の会場は増えました。

    このページのトップへ


上村松園

jonomai
jinnseinohana

明治8年京都に生まれ、明治、大正、昭和と制作活動し、昭和23年73才で文化勲章を受賞した日本の美人画を代表する女流作家 上村松園をご存知ですか。
明治維新以来,欧米の影響を猛烈に受けながらもまだまだ日本人が自国の文化のなかに生きていた、日本人女性がたくましくもあり、最も美しかった時代、松園は、「私の美人画は、単に綺麗な女の人を写実的に描くのではなく、写実は写実で重んじながらも、女性の美に対する理想やあこがれを描きたい」と、日本人女性の品格と日本文化の風俗を描き続けました。
上村松園が活躍した時期、着物が華なやいだ時でもありました。 平安時代から1000年の時を経て日本女性の着物姿は、究極の美を完成しました。
長谷川結髪工房は婚礼美容に関わるものとして、日本人の婚礼の美容でこれ以上何も足さない。何も引かない。の原点に返り、より洗練させていきたいと考えています。



作品解説・上村松園著 青眉抄より

序の舞 昭和11年 
「上流家庭の令嬢風俗を描いた作品ですが、仕舞いのなかでも序の舞はごく静かで上品な気分のするものでありますから、そこをねらって優美のうちにも毅然として犯しがたい女性の気品を描いたつもりです。何ものにも犯されない,女性のうちにひそむ強い意志を、この絵に表現したかったのです」

人生の花 明治32年
「華やかな婚礼の式場へのぞもうとする花嫁の恥ずかしい不安な顔と、附添う母親の責任感のつよく現れた緊張の瞬間をとらえました」


参考文献    
日本女性服飾史 井筒雅風著 光琳社出版株式会社
日本の美術 結髪と髪飾り 橋本澄子編 至文堂
アサヒグラフ 美術特集・上村松園 朝日新聞社
別冊太陽 日本の心10・婚礼 平凡社

    このページのトップへ